見知らぬ人

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「それじゃ正男、行ってきます!」
 午前八時、妻が慌ただしく自宅を出て行く。
 私は寝ぼけまなこをこすりながら「気をつけてね」というおまじないを唱えて妻を見送る。
 二年前までは一緒に自宅を出て会社に通勤していた。
 しかし、私は大病を患い働けない体になった。病気は治ったが妻と話し合った結果、私は専業主夫となった。
 申し遅れたが私の名前は|安藤正男《あんどうまさお》と言う。
 結婚を機に都内に引っ越し、十二階建てのマンションの八階の一室に妻と二人で住んでいる。八階を選んだのは「末広がり」という縁起を担いだから。「ラッキーセブン」の七階とどちらにするか悩んだが私は和風の縁起を選んだ、らしい。
 マンション住まいは煩わしい近所付き合いがなくて気楽だ。顔を合わせたら挨拶を交わす程度。表札を掲げていないお宅もあるから「●号室の方」と部屋番号で呼ぶ事もある。我が家は表札を掲げてあるので八階に住む方々からは私が「安藤さん」だという事を認識されていると思う。

 妻が出勤した後、私は朝食を食べ午前中に掃除と洗濯を済ませる。料理は苦手なので私の昼食はもっぱら妻が作った昨晩の夕食の残りになる事が多い。
 昼食を食べ終えると私は散歩に出かける。散歩コースは特に決めていない。東西南北、気分次第で気ままに散歩する。どこまで歩くかも決めていない。
 自宅から一歩外に出る。すると偶然八〇五号室の方と会ったので挨拶を交わす。
 八階にいる間、私は「安藤さん」もしくは「八〇三号室の人」と認識されているだろう。
 私は運動を兼ねて八階から一階まで階段で降りる。
 一階に着くと管理人さんが廊下を掃除していた。管理人さんと挨拶を交わす。管理人さんには私は「八〇三号室の人」もしくは「八階に住んでいる人」と認識されているのだろう。
 エントランスを抜けマンションから一歩外に出る。
 マンション住まいだと近隣住民との付き合いはほとんどない、と思う。近所の家には当たり前だが表札が掲げられている。しかし、誰が誰だかどこに住んでいるのか全くわからない。私がマンションに出入りしているところを見た事のある近所の人からは「●●マンションに住んでいる人」と認識されているのだろう。
 近所のコンビニエンスストアに入りレジへ向かう。レジに立つ店員さんの胸に付けているネームプレートで店員さんが斉藤さんだという事がわかる。私は斉藤さんに「七十六番のタバコを一つください」と告げる。大抵私がタバコを買う時は斉藤さんがレジに立っている。斉藤さんにとって私は「七十六番のタバコの人」と認識されているのだろう。
 コンビニエンスストアを出て歩きだす。今日は西の方に歩こう。ここから私を知る人、私が知っている人は誰もいなくなる。
 私は自宅に帰宅するまで見知らぬ人となり、見知らぬ人とすれ違う。
 今日は二時間見知らぬ人であり続けた。
 私は自宅に戻ると一杯のコーヒーで喉を潤してからベランダに出た。
 日差しの温もりと風の冷たさを感じながら物思いにふける。地上を歩く人にとっては今もなお私は見知らぬ人なのだろう。
 また散歩にでかけようか? しかし、また見知らぬ人となるのは私にとてっは苦痛だ。
 今日は自宅にとどまる事にしよう。自宅にいれば私は見知らぬ人ではなく安藤正男でいる事ができる。
 自宅に一人でいると時々怖くなる事がある。
 私が安藤正男である事は私自身しか知らない。怖くなった時、私は洗面台の鏡で自分を見つめる。鏡に映る自分の姿を見て自分が安藤正男である事を認識する。
 今日は誰からも電話がかかってこない。パソコンでメールソフトを立ち上げメールを確認する。私宛の迷惑メールが何十通か送られてきているが、私の事を知る人からのメールは送られてきていなかった。
 妻が帰宅するまであと四時間ある。妻が帰宅するまでの間、私は自分自身で安藤正男である事を認識し続けなければならない。
 私が見知らぬ人になる事を苦痛に感じる事、安藤正男である事を認識し続けたいと思うのには、私が患った大病に原因がある。
 私が二年前に患った大病とは健忘症、いわゆる記憶喪失だ。一度自分が安藤正男である記憶を失った事がある。
 記憶を失った時、私は自分で自分の事を見知らぬ人と認識したのだ。
 妻の帰りが待ち遠しい。
 なぜなら、妻に名前を呼ばれる事で私は見知らぬ人になる苦痛や恐怖から解放されるのだから……。

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